2009年1月31日土曜日
ドレスデン(8月22日)
写真はドレスデンの中心にあった共産主義時代の遺産。やはり旧東ドイツ、こういうのが残っている所が面白い。
ドレスデンは中心を少し離れると殺伐としていて人気も少なく、治安の悪そうな感じでした。夜なんかは絶対一人で出歩きたくないです。
とはいってもやはり歴史のある町。再建されたフラウエン教会やツヴィンガー宮殿は美しいものでした。
2009年1月30日金曜日
プラハ(8月19,20,21日)
私たちがプラハを訪れた8月20日は、奇しくも1968年にワルシャワ条約機構軍がチェコスロバキアに軍事介入したその日でした。
プラハの春が弾圧され、ちょうど40年ということで色々な催しが行われていました。広場で写真展示が行われていたり、博物館前で当時の様子が再現されていたり。軍事介入がどんなものであったのかその雰囲気を伺い知ることができました。
言わずと知れたF.O.ゲーリー設計のダンシングビル。ゲーリーの建築は07年にボストンで見たM.I.Tのステイタセンター以来二作目ですが、このダンシングビルはそのステイタセンターと比べ外観はかなり控えめでした。それもそのはず、歴史のあるプラハの町にステイタセンターのような明らまさな脱構築的外観は似合うはずもないでしょう。
賛否のある建築ですが、このダンシングビルがプラハにあることにより、プラハという町がよりいっそう魅力的になっていると思いました。
この旅では他にもベルリンで、同じくゲーリーが設計したDZ銀行も見ることができました。
私は写真のこの教会で聞いたシューベルトのアヴェ・マリアを生涯忘れないことでしょう。このヨーロッパツアーの手配はほぼ私一人でやっていたのですが、準備に半年以上かけたこの仕事が、このアヴェ・マリアですべて報われたような気がしました。教会に響き渡る歌声を聴きながら、私は自然と溢れ出る涙を止めることができませんでした。宗教音楽とは、救いとはこういうものなのでしょうか。
プラハはとても美しく、居心地のよい町でした。いずれまた訪れようと思います。
プラハの春が弾圧され、ちょうど40年ということで色々な催しが行われていました。広場で写真展示が行われていたり、博物館前で当時の様子が再現されていたり。軍事介入がどんなものであったのかその雰囲気を伺い知ることができました。
言わずと知れたF.O.ゲーリー設計のダンシングビル。ゲーリーの建築は07年にボストンで見たM.I.Tのステイタセンター以来二作目ですが、このダンシングビルはそのステイタセンターと比べ外観はかなり控えめでした。それもそのはず、歴史のあるプラハの町にステイタセンターのような明らまさな脱構築的外観は似合うはずもないでしょう。
賛否のある建築ですが、このダンシングビルがプラハにあることにより、プラハという町がよりいっそう魅力的になっていると思いました。
この旅では他にもベルリンで、同じくゲーリーが設計したDZ銀行も見ることができました。
私は写真のこの教会で聞いたシューベルトのアヴェ・マリアを生涯忘れないことでしょう。このヨーロッパツアーの手配はほぼ私一人でやっていたのですが、準備に半年以上かけたこの仕事が、このアヴェ・マリアですべて報われたような気がしました。教会に響き渡る歌声を聴きながら、私は自然と溢れ出る涙を止めることができませんでした。宗教音楽とは、救いとはこういうものなのでしょうか。
プラハはとても美しく、居心地のよい町でした。いずれまた訪れようと思います。
2009年1月29日木曜日
オシフィエンチム(8月18日)
オシフィエンチムを訪れたのは、アウシュビッツ、ビルケナウ強制収容所跡をこの目で見るため。20世紀の負の歴史が凝縮しているような場所ですが、良くも悪くも観光地化していました。大勢の人が観光バスで訪れ、ガイドに連れられ見学し、また去っていく。多くの人がこの地を訪れるのは、歴史を学ぶことの重要性を知っているからこそなのでしょうが、私はそこに虚無感を感じました。おそらく私だけでなくここを訪れた多くの人が感じていることと思いますが。
写真は、アウシュビッツ国際青年交流センター(IYMC)で見た内海信彦さんの作品。この作品からは、アウシュビッツで亡くなられた人々の声、その歴史を伝えてきた人々の思い、それら全てが凝縮され視覚を通じて体中に伝わってくる気がしました。
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